今日はいいお天気。バイク日和と言えそう。
ぼくはと言うと相変わらずクラッチも握れない。
今日はリハビリで病院。
先日の診察の時、握力を測った。
左手の握力、10キロ。
このサイトによると7歳の女児の平均値より低い。
バイクで1日ツーリングするとき、
何回くらいクラッチを握るんだろう?
おそらく数百回レベルかな?
ぼくは今おそらく2回くらいしか握れない。
こりゃ無理。
いいお天気が来ても乗れない。
清志郎じゃないけど発車できない。
無理、全然無理。
大谷もダルビッシュも好きだけど、
侍ジャパンは嫌い。
花見行きたいとも思うけど、人混み嫌い。
そんなぼくが最も愛するのが、
バイクで行くコンテナ埠頭。
季節によって違う風の匂いがする。
でも行けない。
嗚呼、つまらん。
この前ある人とこんな会話をした。
曰く「ただそばにいる」と言うのも会話だよね、と。
日経に載っていた長島有里恵さんのエッセイに
端を発した話だった。
印象に残ったのは
「人間喋り過ぎなんだよな」
というある人の言葉だった。
他にも色々思うところあったけれど
それを全部すっ飛ばして言うと
愛着というものも言葉を超越した会話なのだと思った。
そういう意味で愛車であるBMW RnineT「碧」と
そばにいることも叶わないのは辛いわけだ。
なんの脈絡もないというか脈絡すら怪しいが
言葉で何もかも操れると思わない方がいい。
言外のものに思いを致す必要がある。
例えば知らない音楽を聴くとか、
絵を見るとか書を書くとか
星を見上げに行くとか。
大事なのは、山脈や、人や、染色工場や、セミ時雨などからなる外の世界と、きみの中にある広い世界との間に連絡をつけること、一歩の距離をおいて並び立つ二つの世界の呼応と調和を図ることだ。
スティルライフ(池澤夏樹)
たとえば星を見るとかして。
何でも言葉で表す。
自分たちを主語にして構築する。
それもいいけど
偶然に与えられたもの、
単なる幸福と考えるのもいい。
何かを成し遂げたのではなく、
何かがただ与えられただけと考える。
それもいいのではないかと
春らしい日の午後にぼんやりと考えたりする。
それもまた言葉を使ってのことだけどな。