さすがに堪忍袋の緒が切れた、という感じ。その怒りに任せて乱文を認めておきます。多少知性のある日本人は政治との間に距離を置くのが普通だったとは思いますが、もはや無関心ではいられないし、いてはならないと思います。今の政治の混迷のもとを作ったのは自民党政権ですが、現政権の状況もお粗末としか言えないものです。
Facebookを見ても、知的な人たちの嘆き節があちらこちらから聞こえてきます。現状理解はみんな正しい。ではどうするかです。現実的な選択肢と展開シナリオは実は想定可能です。
➊このままいく。現状を嘆きつつ(SNSなどでね)もいままでどおり政治にはコミットせず。次第に状況が悪化し、どこか他人事で批評等をしていただけの国民にも明らかな実害(たとえば増税と社会保障の切捨てなど)が及び始める。
➋日本を見限る。国家の趨勢と個人や家族の生活をドライに切り分けて考え、海外移住、国際分散投資など具体的なアクションを戦略的に進める。すなわち日本を捨てるという選択を行う。自己同一性の問題は抱え込みながら。
➌何とか現状を変えるために政治へのコミットを高める。或いはコミットが高まるような政治体制への移行を国民が真面目に考える。その上で自分たちが希望する生活を構築する。
➊は嫌だし、➋は現実的には始めています。国や会社に依拠しなくても生きていけるように、というのは私の根底にある危機感がそうさせているのかも知れません。でも本当は➌がいいと思っています。なぜならダメダメではあっても、自分が生まれた日本という国が好きだから。日本のどこが好き?と聞かれれば、やはりこの国土や季節や、人の優しさや繊細な美意識ということになるのではないかと思います。
震災を契機に、日本人は世界中に評価されたと思います。その我慢強さ、粘り強さ、謙虚さ、優しさが。海外メディアが感嘆を持ってそれを伝えるのを聞いて多くの日本人は嬉しい思いを抱いたでしょう。私もその一人です。その一方で、まるでダメだということが分かったのは、日本の政治、企業のガバナンスを含めた統治形態(行政)、マスコミでしょう。ここで強く言いたいのは日本人がダメなんじゃなくて、今の仕組みがダメなんだということ。それを分かるにはいい機会です。ダメなのは日本人だからではなくて、ダメな仕組みをいつまでも持っているから、だと。
ダメな仕組みも昔はいい仕組みでした。それを作った世代は偉い。米国に安全保障をもらい、その庇護のもと、挙国一致でひたすら経済伸張を目指す仕組み。挙国一致だから官民は基本的に癒着する構造にあります。永田町と霞ヶ関は挙国一致で上げた富を配分するのが本質的な役割だったのです。戦後60年、基本的にそれだけのために進化してきたのが日本の政治・行政・統治機構です。政治家は利益配分を有利に進めるのが存在目的ですし、官僚は所轄の産業を管理してこれまた予算配分を勝ち取るために働く。日本という国そのものが非常に企業に近い形だったと言えるかも知れません。国民は基本的に従順で優秀な従業員といったところですか。それらが可能だったのは、戦後の日本には本質的な危機がなかったからでしょう。しかしこうした繁栄のための図式に大きな罠が仕掛けられてしまった。それが今回の原発問題です。
原子力を利用するか否かは本来国民が決めるべきことだったでしょう。その危険性と利便性を天秤にかけて判断をするわけです。しかしおそらく一般国民の誰もこの議論に加わったという記憶がない。日本カンパニーの従業員は経営の意思決定には参画できていなかったわけです。或いは参画してもしょうがない、ということだったのかも知れません。本来これは選挙民自身の責任であり、私たちひとりひとりがその批判を甘んじて受けなければなりません。しかし意図的に国民のコミットを下げる制度設計がされている感もありますから、今までを反省して(私を含めた)国民が変わることでこの責任を贖うと考えることにしましょう。もしも過去の意思決定に参画できていたら、自分だったらどう判断したかと考えます。私なら想定不可能な被爆の危険、暴走すれば制御不能な核分裂反応の危険、幾世代も超えて残り自国だけでは処理しきれない核廃棄物の危険を考えるとそれを人間が管理制御するのは不可能と判断します。よって想定不能なリスクは取れないので別の選択肢を探すでしょう。そんなのないよ、と言われるのであれば、発展のあり方自体を考え直すでしょう。そもそも不断に発展、主に経済的発展を目指さなければならないというのは人間に固有の妄想のひとつですし。
外部からの大きな圧力や災害がないことを前提に、経済にだけ専心できた稀有な国、日本。その中で培われた(或いは自民党政権が作り上げた)利益配分システムは既に機能不全です。さらに自民党自身、実質的な最後の宰相である小泉純一郎によってそのシステムを本当に自ら破壊した訳です。今の日本には国家としての繁栄のための基本的な機構がありません。(企業や個人の水準なら持っているケースがあるでしょう)そうはいってもどこかにあるだろう、と思うのが私たち一般庶民なわけですが、残念ながらないでしょう。(あればいいけど)だから、私たちはそれを今一度作らなければならないという理屈です。考え方によっては私たちは、明治維新、戦後復興以来3度目の改革に参加するという役割を与えられた世代だとも思えるわけです。
さてでは具体的にどう構想しましょうか。私は草案として連邦共和制、つまり日本連邦共和国を提案します。道州制の先を見るということです。地方分権というともはや手垢にまみれた感があります。中央集権国家の形で行う地方分権はおそらく機能しないでしょう。なぜなら挙国一致の経済発展政策と地方へのひも付きの配分政策は、地方自治体の個別戦略を弱体化させていることが予想されるからです。日本の国土をいくつかのブロックに分割して考え、そのブロックごとに地域主権を与えて基本政策を構築させるべきでしょう。名称は未定ですから、そのブロックを暫定的に「州」と呼ぶことにします。私たちの日本国をいくつかの州の連邦によって成り立つ連邦共和制に移行させるのです。その際には一度既存制度をガラガラポンします。州ごとに現在の住民人口と動態、包含される県民性、地場産業、有力企業の存在その他のリソースをベースに中長期戦略を立案し、税や社会保障も州独自に構築します。そして国民や企業はマッサラから居住地や所在地を選択できるようにするのです。産業振興や経済特区なども国が決めるのではなく、各州が独自に戦略を構想し、企業や住民を誘致するわけです。州議会とこれまた暫定的な呼称ですが州知事にかなりの権限を与え、直接選挙制で議員と知事を選びます。現在でも地方自治体の方が国政よりも直接選挙制を持つだけ健全とも言えます。中央から配分されるものを運営するだけで戦略性に乏しいため住民が政治参画する意味を見出しにくいところに課題があるだけです。自分たち独自の戦略に基づく生活をデザインできるのであれば、特に税や社会保障を横並びでなく構築できるのであれば住民の政治参加意欲は格段に高くなるのではないでしょうか。
中央政府は何をするのか。これは防衛、外交、エネルギーの3大課題を担当します。州ごとの防衛政策などナンセンスですから。国防については別で構想しますが、私個人としては憲法を改正して日本連邦軍を創設し、米軍と連携する方がいいと思っています。なぜなら自分たちの国を自分たちで守るというごく当然のことについて一般国民があまり考えなくて良い、という今の状況が異常だと思うからです。国を守るということのリアリティの欠如が震災における被災地支援の遅延に繋がっていると思うからです。被災した人たちを救いたいという自衛隊の方々の思いは私たちにもひしひしと伝わり、内閣の迷走とは逆にその真摯な意思と存在に感謝した人がどれだけ多かったか。しかし政府は自衛隊も含む国家公務員の給与を縮減するという方針でその活躍に報いています。これはおかしいでしょう。言葉は悪いかもしれませんが、売国的な政治家が愛国者から収奪するなんて。国防、再軍備などはまだまだ考えるべきことが多いとは思いますが、中央政府が担うべき最大の領域であると思います。エネルギー政策も大きな課題です。これは経済だけではなく軍事とも不可分です。今回の課題のコアである原子力の平和利用の是非は、裏を返せば非平和利用すなわち軍事利用すなわち核武装という問題に発展するからです。大事なことですが、本稿の趣旨である連邦制移行においてはサブイシューなので後日の論考に譲ります。
今回事故を引き起こした福島第一原子力発電所は首都圏の電気需要のために作られ運転されていました。事故の影響を受けている福島県民は誰一人この原発で作られた電気は利用していないわけです。それなのに今回の最大の被災者になってしまう。これもまた政治的無関心が生んだ悲劇です。私たちの無関心は私たちにいつか牙を剥くということなのです。福島の姿は私たちの姿そのものだと思うべきです。まして福島県の犠牲のもとに電力を使っていた(私を含む)首都圏の人間は節電はもちろん、電力料金の値上げなども受け入れる必要があると思います。(もちろん、事故を含むあらゆる責任の明確化とその履行が担保されたうえで、という条件は付きますが)連邦制に移行して州に主権を委譲した場合、エネルギー政策もその範囲内にすべきと思います。州ごとに需要を考慮した供給体制を整備します。州ごとに電力会社を持つことになるのでしょう。しかしその他の州に存在する電力会社が発電した電気を買うこともできるようにします。州ごとにグリーン電力に注力する、あるいは原子力を選び取る場合もあるかも知れません。東京電力と日本政府のロジックが正しければ、その州は税負担が軽くなるのでしょう。被爆のリスクを負ってもそれがいいという州民の合意があるならばそれもまたよしということです。
国会は衆参両院とも全廃です。州知事と州議会が選定する理事数名、それに中央政府の国防、外交、エネルギー各相、行政府の長などが参加する連邦議会を開設しましょう。連邦議会では、前述した国防、外交、エネルギー政策と連邦の国際競争力を維持確保するための基本戦略や政策を討議します。連邦議会の評議員はそうですね、40-50人くらいでいいんじゃないですか。現代の元老院のようなものです。評議委員長が連邦議会の議長を兼ね、この人が連邦政府の最高指導者であり、日本のトップという形が適切かも知れませんが、まだ明言は避けておきます。霞ヶ関の官僚は出世レースの最後に事務次官に到達するなんていう裏方から表舞台に引っ張り出しましょう。連邦議会に参加する行政府の長は官僚でいいと思います。何も分かっていない大臣なんかまったく不要です。そのかわり、国民すべてが知っているような優秀な人に務めてもらう。大事なことは著名であることではなく、有能な人が能力を発揮することで著名になるということです。能力が高いなら報酬も今の10倍くらい払えばいい。ちまちま払う報酬が彼らのプライドとマッチしないから、天下りなんていうものが起こるのです。優秀な人にはちゃんと働いてもらったほうがいいに決まっています。連邦議会の面子は国民の誰もが尊敬できるような人が望ましい。最終的に問題になるのは人材でしょう。連邦制に移行すれば霞ヶ関の縦割り役所仕事は少なくなることが予想されますね。大半が州に委譲されるので、優秀な官僚は州で職責を全うしてもらうのがいいと思います。中央政府は各省庁の利害調整、省利省益の追求に終始して結果的に大局観を失いやすい。よって大局に向いた人材にはむしろ州で辣腕を振るってもらう方が絶対にいい。国会議員はほとんど機能していないので、州議会で州のために働ける人だけが残ればいいと思います。
連邦政府は京都におきましょうか。いやむしろ京都を日本連邦の首都にして皇居は京都御所に、東京を連邦政府、連邦議会がある都市にというのが美しい姿でしょうか。京都をバチカンのように日本の精神文化の象徴として位置づけることも有効かもしれません。
大学生の頃、J.リップナックという人が書いた『ネットワーキング』という本を読みました。1980年代ですからまだインターネット出現前。それでも情報通信ネットワークが共同体のあり方を変えるというメッセージには共感したものです。そこで提出されていたのは「もうひとつのアメリカ」というものでした。私たちも「もうひとつの日本」を構想し、もしかするとそれに移行することさえ可能なのかも知れません。SNSが批判や虚言や愚痴で埋め尽くされるのでは救いがありません。もうひとつの日本。現在私が考えるそれは、「日本連邦共和国」です。2011年3月11日以降、日本人は変わることを要請されています。もうそれは逃げることのできない運命だと思います。「もうひとつの日本」の実現は私たち普通の国民に託されています。仕事が何かとか、能力があるかとかこの際関係ないでしょう。自分たちの国の形を自分たちが変えるべきときが来ているのです。きっと。
この稿には続編があります。よければどうぞ。