オーケストラの音が恋しくなった
昨年は一度もコンサートに足を運ばなかった。そんなことは今までなかった。自宅とオフィスを行ったり来たりする日々。時間はあり、音源もほぼ無限にある毎日。音楽を聴くという行為自体に困ることはなかった。
思えば音楽の聴き方はとても変わった。20代の頃はオーディオにも凝って、大きなスピーカーを大出力のアンプで鳴らしていた。CDプレイヤーやターンテーブルにも大枚をはたいた。スピーカーの前に何時間も座って音楽を聴いていた。
いつの頃からか、音楽は目を閉じて聴くものではなく、なんとなくそこにあるものに変わっていった。好きな音楽が変わったこともあるかも知れない。いやその表現は正確ではない。なんとなく聴きやすくて心地よい音楽を聴くようになったのだ。
マーラーやブルックナーのシンフォニーを普段聴くことはほぼ無くなった。ぼくはオフィスでも四六時中音楽をかけている。聴くとはなく聴いている。そんなプレイリストの中にシンフォニーはあまり入ってこない。
よく聴く曲を思い起こすと、器楽が多い。特にピアノ、ギターなどのソロだ。アレンジものも多い。またポストクラシックのようなジャンルの音楽もよく聴くようになった。例えば、このオーラブル・アルナルズ。
ポストクラシックは従来型のクラシック音楽を良くも悪くも塗り替えようとする活動と言って良いかも知れない。西洋音楽の歴史はそのままクラシック音楽の歴史だ。だから単純にそれを否定できるものではない。
だからポストクラシックはデジタル技術によって拡張した音楽的な可能性と、同じくデジタル技術が可能にした新しい聴き方、別の言い方をすればデジタル技術が創出した新しい聴衆に対応しようとする音楽の息吹だと言える。
そんな音楽を聴いていると相変わらずぼくは癒されるし、特段困ったこともなかったのだ。しかし昨年の秋頃だったろうか。ぼくは猛烈にオーケストラの音が聴きたくなった。サントリーホールのステージ上、指揮者の登場を待つオーケストラのさざめき。チューニングの響きがどうしても聴きたくなったのだ。
すぐに東京フィルの渉外担当のHさんに連絡し、どこかのコンサートに潜り込もうと画策したのだが、ソーシャルディスタンシングを推進する状況で席を絞り込んでいる事情もあり、ホールに行くことは叶わなかった。
そして今年、東京フィルの支援に復帰したことで、ようやくぼくは数年ぶりのコンサートに赴くことができた。
今回は諸事情でホームのサントリーホールに伺えず、渋谷東急文化村のオーチャードホールで東京フィルの2021年定期演奏会の幕開けに同席した。
コロナ時代のコンサートは大変だ
少し早めに自宅からクルマで文化村に向かう。15分から20分で着く算段だが、何かあったらマズイので45分前に自宅を出た。ちょうど会場時間の1分前にオーチャードホールに到着。招待券をチケットに引き換えてもらい、足を踏み入れたコンサートホールはいくつかの点で大きく様変わりしていた。
まず入場直後にはカメラでの検温。チケットの半券をもぎる人もいない。プログラムや他のコンサートのチラシは手渡しではなく、テーブルから各自がピックアップする仕組みだ。でもこれは割と合理的ではないかと思った。以前は、どっさり手渡されるチラシを選別して行きたいコンサートを残し、その他を廃棄するのがちょっと気後れしたからだ。欲しいチラシだけをピックアップできる方がいいと思う。ちなみにぼくはプログラムだけをピックアップした。
ぼくの席は1階の22列22番。にゃんにゃんにゃんにゃん、だ。割とこの番号が割り当てられることが多い。野良猫教授だからか。もしくは猫を4匹飼っているからだろうか。
まだ人影もまばらなホールに着席する。アナウンスが色々なエチケットについて説明している。演奏中もずっとマスクは装着していなければならない。さて、開演までは45分もある。ステージ上ではオーボエ奏者やクラリネット奏者が、今日演奏される難曲のパッセージをさらっている。「ダフニスとクロエ」の第二組曲の終局「全員の踊り」の旋律。そうだよな、あれは難しい。ホルンは「火の鳥」の「魔王カスチュイの踊り」を吹いている。
これだ。この混沌。指揮棒のもと、一糸乱れることのない秩序が生まれる前の混沌。この時間を味わいたくて、今ぼくはここに戻ってきたのだ。すでに幸せな気持ちが湧き上がる。この混沌から秩序と調和、そして想像を超えたハーモニー、豊穣なるシンフォニーが生まれていくのだ。混沌こそが豊穣の母なのだ。
プログラムを改めて読む。開幕の演奏会だからだろうか。編集方針も少し変わり、なんだか文面からも東京フィルの意気込みが伝わってくるようだ。今日のプログラムは以下の通り。休憩をおかず、1時間で演奏会は終了する。ちょっとバタバタしている気もするが、これはこれでコンパクトでいい気もする。
ラヴェル:『ダフニスとクロエ』第一組曲
Ⅰ.夜想曲
Ⅱ.間奏曲
Ⅲ.戦いの踊り
ラヴェル:『ダフニスとクロエ』第一組曲
Ⅰ.夜明け
Ⅱ.無言劇
Ⅲ.全員の踊り
ストラヴィンスキー:バレエ組曲『火の鳥』(1919年版)
Ⅰ.序奏
Ⅱ.火の鳥とその踊り
Ⅲ.火の鳥のヴァリアシオン
Ⅳ.王女たちのロンド
Ⅴ.カスチュイの凶悪な踊り
Ⅵ.子守唄
Ⅶ.フィナーレ
指揮:アンドレア・バッティストーニ
オーケストラ:東京フィルハーモニー交響楽団
久しぶりに聴くコンサートとして、これは最高のプログラムの一つだと思う。ラヴェルもストラヴィンスキーもぼくが心から愛する作曲家。特に『ダフニスとクロエ』の第二組曲は心底憧れた曲だ。
大学時代のぼくは音楽に今よりも近づいていた。オーケストラに所属したり、吹奏楽団の指揮をしたりしていた。そしていくつかの心に残るコンサートを指揮した。その一つがこの『ダフニスとクロエ』の第二組曲だったのだ。
学生バンドでこの曲を演奏するのは無謀とも思えた。しかし、結果としてぼくらは十分満足の行く演奏をした。そしてそのことは、その後数十年を経た今でもぼくらの心の中に動かし難い経験として残っている。
ぼくはこの曲を指揮し、心に残る時間を創り出すことができた。それはぼくの人生における一つの大きなマイルストーンなのだ。そんな思い出深い曲と、圧倒的な感動をもたらすフィナーレが待つ『火の鳥』の2曲を1時間で聴けるなんて、他にこんな贅沢な1時間があるだろうか。
ちなみにぼくがオススメする音源はこちら。
「火の鳥」なら、ブーレーズ指揮のシカゴ交響楽団。カップリングは「ペトリューシュカ」のもの。
「ダフニスとクロエ」も名演奏ばかりで悩む。ここは学生時代に一番聴き込んだこの演奏を選ぼうかと思う。
アンドレ・クリュイタンス指揮のパリ音楽院管弦楽団の演奏。ここで聴かれるオーケストラの音は古き良きフランスでしか聴けないものだ。
さて、レコードの紹介はこのくらいにして、久しぶりに聴いた音楽の余韻が冷めないうちに記憶を記しておこうと思う。
第947回オーチャード定期演奏会・所感
コンサートマスターが席につき、一瞬訪れる静寂。カツカツという足音を響かせて、若きマエストロ、アンドレア・バッティストーニ登場。東京フィルではもうすっかり人気者、歌舞伎の名優のように暖かい拍手を受けている。
実際、バッティストーニの東京フィルへの貢献は多大なものがある。絢爛な管弦楽曲も上手だし、イタリアのオペラも上手い。この2つを両輪として構成されることで東京フィルのプログラムはかなり魅力的になった。昨年はややつまらなかったけれど。
これまで聴いたバッティストーニの演奏会では、レスピーギ、ストラヴィンスキー、ヴェルディがずば抜けてよかった。その延長線上に今日のコンサートがある。いい演奏が聴けるのは確実だろう。
ラヴェル。ぼくが最も愛する作曲家の一人。誰を紹介する時も同じようなことを言っている気もするが、好きな作曲家TOP5には入ると思う。ピアノ曲が最も好きだ。「逝ける王女のためのパヴァーヌ」「ソナチネ」「ラ・ヴァルス」など、本当に心から好き。
一方で管弦楽曲も素晴らしい。このなんとも純粋で愛らしいオーケスレーションはラヴェルでしか味わえない響きだと思う。
ダフニスとクロエの組曲を2つとも聴くのは初めてだったが、ほぼ全曲を聴いたのに近い印象を受けた。第二組曲はその三曲だけでもカタルシスが得られる名曲だと思うけれど、やはり第二組曲全体が「ダフクロ」のフィナーレという性格が強いので、第一組曲を聴いてから第二組曲を聴いた方が感動が大きくなる気がした。
バッティストーニの目指した音楽は、やはりリリカルでバランスよく美しい演奏だったと思う。東京フィルの管楽の底力が発揮された極めて秀逸な演奏だった。ちょっと面白かったのは、全曲を通じて大活躍するフルートのアーティキュレーションだ。
これはおそらくバッティストーニがそのような演奏を指示しているのだと思うが、ピカッと輝くような美しさではなく、少しマットがかった質感を伴う音色で民謡調、あるいは雅楽のような節回し。アルトフルートはまるで尺八のような響きが印象的だった。
好きな曲なので全曲を通して堪能したが、「夜明け」のクライマックスは素晴らしかった。「朝」を表現する音楽の中で最も壮大で荘厳で美しい曲だと思う。ラヴェルが構想したキラキラの音の洪水に身を委ねながら、こんなことを思った。
Transition、トランジション。
日本語訳だと「遷移」になるようだ。ぼくがイメージしているのは、あるシーンから別のシーンへの移り変わり。その素晴らしい様、あるいはそこにおけるエフェクトのことを問題にしたい。
ぼくはバッティストーニはこの「トランジション」の名手のように思う。シーンの切り替わりを実に効果的に「音楽で」伝えてくれる。「夜明け」なら、小鳥の囀りから徐々に力を増す太陽の輝き。全ての生き物を照らす恵の光。太陽が昇るに連れて世界が広がっていく。そんなシーン。
あるいは、漆黒の暗闇の中に金色に輝く火の鳥が現れて、飛び立ち、光の粉を撒きながら虚空を舞うシーン。
シーンからシーンへのトランジション。あるいは空間が一気に広がるトランジション。これがバッティストーニの指揮で聴くと、実に効果てきめんに感じられるのだ。
別の言い方をすると「絵のような音楽」において、彼の才能は最も輝くような気がする。だから、バレエ音楽やオペラとはとても相性がいい。逆にぼくが聴いた中で今ひとつだったのは、マーラーの交響曲など。つらつらとひとり語りのように続く音楽とバッティストーニの音楽性はやや相性が悪いように思う。
シンフォニーだからダメというわけでもないと思う。今年予定されているプログラムではチャイコフスキーの交響曲第5番があるが、これは彼に向いているのではないだろうか。チャイコフスキーも「絵のような音楽」と言えるのか。ただ「文学的な音楽」ではないような気がする。
今はまず、バッティストーニには「絵のような音楽」における「シーンのトランジションの華麗さ」を求めたい。そしてこの夜の演奏会は、彼のそうした能力が存分に発揮された素晴らしいものだった。
あぁ、音楽はいいな。オーケストラはいいな。