polyphony

polyphony of my life

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Facebookの使い方ってこれでいいの?

      2016/02/01

毎日オフィスに行けばPCを立ち上げて、GoogleカレンダーとともにFacebookを眺める。いやそれ以前に朝起きてスマフォを手にした際にFacebookの更新情報が目に入る。これが多くの人の毎日だと思う。Facebookは人の、人生の情報化ツールである。結局、人間の存在は情報でしかない、ということを痛感させるためのツールとも言える。人がいつどこで生まれ、どのような教育を受け、どんな仕事をしたりどんな会社に勤めたりしているのか。毎日何をして暮らし、何を食べてるのか。それの蓄積がその人だとFacebookは言う。いや言ってはいないが、それに近いメッセージを発している。果たして人の人生は情報なのだろうか。そもそも人の人生についての情報を僕たちはそれぞれ知り合う必要があるのだろうか。

小学生の頃、偉人伝というものをよく読まされた。偉い人の人生について読むことが大切だということなのであろう。二宮尊徳、野口英世、孫文、アインシュタイン、他に何を読んだか挙げれば切りがない。こうした偉人の偉業を知ることは確かに有益かも知れない。では僕たちのような普通の人についてはどうだろう。僕は他の人が毎日何をして暮らしているのかにそれほど関心がない。自分が何をして暮らすかには大変な関心がある。Facebookに書くのは、自分の暮らしに関心があるからであって、他の人の暮らしを知りたいからではない。もちろん、古い友人や仕事仲間と簡単に連絡が取れるツールとして有用だとは思う。しかし、このFacebookという世界の中でコミュニケーションを深めていくことが何か大事なものに繋がるという実感はない。

ザッカーバーグはFacebookをどんなコンセプトで創ったのか。これでいま何を成し遂げようとしているのか。改めてそれを考えることが必要だ。それについて僕はまだ勉強不足だ。推測で書くならば、彼はインターネットで繋がる世界をPEACEなものにしようとしたのだろう。「いいね」と言えるもので埋め尽くされるのなら、「いやだね」で埋め尽くされるよりはましだ。それはそう。Facebookのような情報に関連するインフラはマクロ視点ではおそらく有益だ。しかし、ミクロ(この場合はひとりひとりのユーザー)視点では熟考を要するのではないだろうか。おそらく僕たちのFacebookの使い方は間違っているのではないだろうか。人生の情報化ツールとして使うのではなく、もっと限りなくプラクティカルに、世の中を変えていくためのアクションのインフラとして使うのが正しい使い方なのではないだろうか。

つまり、僕は、今の僕たちの使い方におけるFacebookは嫌いです。

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