2013年にFacebookのタイムラインについて考えたことを書いた日記です。このときの直観はわりと正しかったのではと思います。嫌なことは時の川に流しちゃいましょう。
不快な思いをタイムラインに投じたら
昨夜は久々に不愉快なことがあって気が滅入ったのですが、それをここに書き込んだことで分かったことがあります。
Facebookの形態はタイムラインと呼ばれますが、その連続性に大きな意味は無くあくまでも「いま」に照準しています。「いま」の連続がタイムラインであるわけで、そこには過去も未来も介在できないのです。
少し楽になった気がした
直線的な時間感覚は西洋的なものであり、僕は円環的な時間感覚を好みますが、このSNSの時間感覚はあくまで西洋的なものですね。今日は本題ではないのでこの辺で。
LIKE!(いいね!)で埋めつくされれば世界は良くなる、なんていうのは妄想でしかなく、人はどうしようもなく愚かだったり、傲慢だったりするものです。
しかし唾棄すべき怒りや迷いや悩みや悲しみをこのタイムラインに投じると、少し楽になる気がしました。友人たちのさまざまなコメントや思いによって、自分の怒りが消されていくような感覚。
「水に流す、砂に流す」という言葉どおり、タイムラインに流してしまうことができるのだな、そういう直観がありました。
積極的にタイムラインに流しちゃえ
「夢は時間に対して直角に立っている」という優れた洞察は稲垣足穂によるものですが、本当に怖い悪意や呪詛とは流れていかない性質のものでしょう。人知れず時間の流れに対して刺さっている呪詛や悪意こそが怖い。本当の呪詛は青木が原の樹海に潜んでいるものでしょう。
つまりしょうもない悩みや怒りや悲しみはむしろ積極的にタイムラインに流せばいい、というのが昨日今日で僕が考えたことです。
Facebookはいいモノごとをシェアするよりも、悪いものごとを流して人を浄化する役割の方が優れているのでは。人間社会の下水道インフラ、浄化装置なのでは、と。
逆に「流れて行ってしまう」のが宿命だとするならば、よい物事や理念を共有したり発展させるにはもっと別の方法が優れているのかも知れません。
そんなことを思う、真夏の午後であります。